日航機墜落事故から30年。新聞でもTVでも大きく取り上げられていました。私自身にとっても忘れがたい苦渋にみちた出来事でした。事故の日の夜遅く、犠牲となられた方々のお名前(カタカナの手書き)がTVで報じられてすぐ、母から悲痛な電話がかかってきました。
『いまTVに〇〇子の名前が出ていた』『今日、東京から帰ると言っていたから間違いない』『おまえ、すぐ飛行場に行って確認してきてくれんか』と。私もすぐTVの名前を追い、「〇グ〇 〇〇コ」とあるのを見ました。が、手書きのカタカナの「グ」は「ブ」にも見えます。
勿論、京都で独り暮らしをしている家に再々電話しても出てきません。当時まだ携帯電話はなく、姉とはまったく連絡が取れません。取り敢えず報道されている「安否問合せ先」に電話しました。丁寧な応対ながら「発表されている以上のことはわかりません」の一点張りです。
その後、日航側からの電話連絡は一切ありませんでした。明け方にかけた電話で「〇グ〇 〇〇コ」が購入した航空券は、某旅行社の大阪難波の支店で発券されていることがわかりましたが、開店時間にやっとつながったその支店の話でも「〇グ〇」か「〇ブ〇」かは不明でした。
購入者の連絡先が某司法書士事務所であることが判明しました。その時点で私は「姉ではない」と思いましたが、一緒に上京した友人の連絡先かもしれないと思い、確認のためその司法書士事務所に電話しました。「お宅に日航機の事故に遭われた方がいらっしゃいますか?」と。
電話の向こうで「います。〇ブ〇 〇〇コです。お宅様はどんな関係の方でいらっしゃいますか?」。一瞬、言葉を失いました。「姉かどうか確認のために電話しました」と、よう言えませんでした。ためらって黙っていると「仰ってください!どういうお知り合いですか?」。
遂に何も話すことが出来なくなり、「申し訳ありません。失礼させていただきます」と言いましたが、必死の声で繰返し「仰ってください」と・・・。震えながら受話器を置きました。その後、母に「姉ではなかった」と報告しつつ、先刻の電話の声が耳から離れませんでした。
翌日、520人の犠牲者の殆どの方々のお名前とお顔が新聞に載りました。私はしかしその中のただお一人の女性のお名前とお顔のみを凝視していました。30年たっても、未だその時の非礼のお詫びが出来ません。毎年8月12日がくるたびに苦しい記憶が甦ります。 合掌。
【補遺】
事故の前年の夏、私は伊丹から札幌に向う日航機に乗りました。飛行機嫌いでしたし高校野球の決勝戦(PL:取手二)が機内に中継されていたので、よく憶えています。その機内で私は耳が異常に痛く、同行した数人もやはり同様の異常を訴えていました。事故後、圧力隔壁の問題が指摘されましたが、前年夏の耳の異常は気圧の所為だと思っていましたから、123便は同一か同型機に違いないと思いました、「調査委」の記録にはありませんが・・・。
【過去ログ目次一覧】
ごあいさつ http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/7de1dfba556d627571b3a76d739e5d8c
腎がんのメモリー http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/bee90bf51656b2d38e95ee9c0a8dd9d2
旅行記 http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/23d5db550b4853853d7e1a59dbea4b8e
閑話休題 http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/c859a3480d132510c809d930cb326dfb
かんわきゅうだい http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/a0b140d3616d89f2b5ea42346a7d80f0
吾輩も猫である1~40 http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/58089c94db4126a1a491cd041749d5d4
吾輩も猫である41~80 http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/dce7073c79b759aa9bc0707e4cf68e12
吾輩も猫である81~ http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/f9672339825ecefa5d005066d046646f