NHK-BSの「プレミアムカフェ」は旧い番組の中から選りすぐり作品を再放送します。先月初めに視たのは1996年放送「世界わが心の旅」。タイトルは 「ポルトガル … 父と子のサウダーデ」。旅人は、数学者というより作家 新田次郎のご子息 藤原正彦でした。
彼を最初に知ったのは「遥かなるケンブリッジ」でした。一家を率いケンブリッジに乗り込んだ若き数学者の留学記です。後に某市の市長になる勤務先の後輩に薦められて読みました。新田次郎の息子の著と知らずに読んだ爽快かつ痛快な読後感でした。
以後、彼の最初の書「若き数学者のアメリカ」、話題を呼んだ「国家の品格」など数冊読みました。少し読めば、彼が右!の論客であることがわかります。私としては唾棄すべき範疇の人物ですが、事象への痛快な斬りこみに唆られ?愛読してしまいます。
番組で藤原正彦が旅したポルトガル。彼の父 新田次郎の小説「孤愁 サウダーデ」の主人公ヴェンセスラオ・モラエスの故国を、父が取材した同じホテルに泊まり同じレストランの料理を味わい同じ酒を飲み、敬愛する父へのサウダーデを探し求める旅でした。
若き日の藤原正彦(左)と新田次郎…父の前で委縮している?感じが面白い。
ヴェンセスラオ・モラエスは、1854年リスボンに生まれ1889年 に初来日。その後 海軍士官、在神戸副領事(後に領事)として外交官を務める傍ら1913年に職を辞するまで故国の新聞に日本の記事を書き続け、後に全6巻「日本通信」が刊行されました。
小説の舞台は長崎・神戸・大阪・徳島からマカオ・リスボンに及びます。日清戦争~日露戦争に至る日本の列強国入りへの歴史の時間軸に添いつつモラエスの眼と心を通して日本の自然・歴史・文化を描き、あわせてモラエスが愛した人々を描きます。
日本への赴任を命じられマカオから長崎に向かいながら、モラエスは日本の美しい海、緑萌える島々に感嘆するところから物語は始まります。海軍士官、外交官であり詩人・生物学者としてのモラエスの一面が垣間見られ多彩な展開に胸が躍ります。
モラエスは、最初に上陸する長崎に二日間滞在、異国の町を楽しみます。散歩中に立ち寄った茶店の娘に二十六聖人碑を問うと娘自ら案内します。別れ際、娘に名を尋ねると「おヨネと言います」。後に結ばれる 「徳島のおヨネ」の伏線となります。
当時のポルトガルには既に大航海時代の栄光はありません。列強!から外れたポルトガルと対照的に日本は富国強兵を進め列強入りをめざす新興勢力でした。そうした中で日清戦争が始まり、戦争の背後に様々な外交・商戦の駆引き、思惑が渦巻きます。
モラエスの生家に掲げられた書
斜陽の国ながらモラエスの海軍士官のキャリアが外交の随所に光ります。各国外交官との遣り取り、日本海軍の依頼に海軍士官としての知見をもとに巧みに応えるモラエスの類稀な手腕は、称賛と感謝を集めますが、警戒心を呼ぶところともなります。
リアルな国際外交の舞台も然りながら、そこは小説の世界、人間のロマンが織りなされます。マカオで結ばれた亜珍と息子をめぐる烈しい諍い。神戸には「絶対について行かない」と頑なに拒む亜珍。息子に心を残しながらモラエスは神戸に赴きます。
日清戦争の勃発、亜珍との破局については割愛します。神戸での任務の一つとして武器購入の交渉で大阪砲兵工廠を訪れたモラエスは、途中、道で倒れた娘を介抱します。名前はおヨネと聞き驚きますが、長崎のおヨネではなく徳島のおヨネでした。
そのおヨネは、松島遊郭の芸者(娼婦ではない)でしたが、脚気を罹い徳島に帰ります。おヨネに魅かれるモラエスは彼女の消息を求めていると、芸事を教えながら焼餅屋で働いていることがわかります。用件をつくり徳島に行ったモラエスはおヨネと再会します。
様々な経緯を経ておヨネは神戸の領事館で来客接待の仕事に就きます。やがてモラエスはおヨネに求愛し彼女もこれを受けいれました。おヨネは外交官夫人として高い評価を受け幸せな日々がつづく中、世界の耳目を注める日露戦争が勃発します。
モラエス(左)と おヨネ…背景は新田次郎の生原稿
この日露開戦までを新田次郎が執筆しました。しかし1990年2月15日、新田次郎は心筋梗塞で急逝、「孤愁」が絶筆となります。新田次郎の死の翌年、父の面影を求め藤原正彦はポルトガルを訪ね、以後取材を含め3回にわたりポルトガル各地を訪ねます。
父の足跡を丹念に辿る藤原正彦。それは渾身の力をこめて取り組んだ作品を最後まで全うできなかった小説家新田次郎の思いを引継ぎ、その無念を晴らそうとする藤原正彦の張りつめた姿であり、父とは別の意味で「サウダーデをたずねる旅」でした。
古都コインブラの「サウダーデの丘」を藤原正彦が訪ね父の遺したメモ帳に記されたこの丘の描写を読みます。『サウダーデ。なんと神秘的な言葉。自由を生んでくれる言葉。優しくなる言葉』。ここにこの物語のテーマとモチーフが凝縮されています。
藤原正彦の旅は最西端ロカ岬で終わり『この丘にもう先はないよと宣言され、おまえの親父は死んだんだ、と波が叫んでいるように思った』と述懐し、そのとき改めて『サウダーデを父のレベルで理解し自らの筆でこの小説を完成させる』覚悟を固めます。
藤原正彦……サウダーデの丘にて
1905年、乃木将軍の無謀とも言うべき突撃を繰返した果てながら旅順は陥落。日本海には7か月にわたりろくに寄港・補給・整備ができず著しく士気が低下したバルチック艦隊が現れますが、整備・訓練十分の東郷平八郎指揮下の連合艦隊に完敗を喫します。
その前後からモラエスの日本の文化・歴史・自然・風俗を紹介する文筆活動は精力的になります。おヨネとの愛にみちた平穏な暮らしが定着する一方、おヨネの体調は次第に崩れ始めます。1908年頃には寝たきり状態になるほどおヨネの容態は悪化します。
「もっと生きていたい。モラエスさんとずっといっしょにいたい」という願いも空しく1912年夏、おヨネは帰らぬ人となります。おヨネの姿を見るに耐えず、結婚式をあげた生田神社にお詣りしたモラエスでしたが、帰るとおヨネの臨終を告げられます。
悲嘆にくれるモラエスを出雲出身の健康で一途なデンが世話をし、職を辞し出雲で生涯を送ることしたモラエスでしたが、結局はおヨネの眠る徳島に移ります。徳島ではおヨネの姪で明るく奔放なコハルが住込みで身の回りを見、やがて二人は結ばれます。
リスボン海軍史料館を訪ねた藤原正彦はモラエスの膨大な史料を前に学芸員に「サウダーデとは?」と尋ねます。学芸員は『ノスタルジーのような感情。移民も多く故国や家族との別れ、悲しみも重なりサウダーデとなります。ポルトガル人の魂です』。
モラエスが母国に宛た手紙(海軍史料館蔵)
徳島でモラエスと暮らし始めたコハルは、やがて結核に冒され若い生涯を終えます。日本におけるモラエスを最も近くで支え愛した二人を喪ったモラエスは執筆活動に精力を傾け『おヨネとコハル』により彼の日本における女性関係を文学として発表します。
母国の人々には隠されていた日本の妻おヨネと愛人コハルについての、虚飾を捨てた赤裸々な告白でした。その告白と作品は、日本の文化・歴史・地理・風俗の紹介の域をこえ日本と日本人を見事に描く作家として改めてモラエスの評価を高めました。
おヨネとコハルを亡くして以後75年の生涯を閉じるまでの十数年、モラエスは二人の墓参を日課としていました。その傍ら作家としての晩年を送り前記「おヨネとコハル」のほか「日本精神」などの著作は日本でも故国でも高い評価を受けます。
しかし晩年のモラエスには、愛する人を失った限りない悲しみのサウダーデの日々であり、故国を遠く離れた望郷の思い深きサウダーデの日々でもあったことと思います。そんなモラエスの心の一端を、藤原正彦はつぎのように描写します。
『モラエスがおヨネとコハルの墓参りから家に戻り、家の鍵穴が見つからなくて困っていると、そこへ蛍が飛んで来てモラエスを家の鍵穴に誘います。モラエスは一瞬!心臓が高鳴り、およねだろうか…コハルだろうか、と呟くのでした』
藤原正彦……ロカ岬にて
全663頁の長編の最後の一節…
『モラエスが毎日、震える手で花を胸に抱いておヨネとコハルの墓に行き、供え、いつまでも佇んでいたのをこっそり見ていた小さな女の子達は、モラエス亡き後も花を摘んできては供え続けた』。
ポルトガルといえば ファド…
藤原正彦の旅は、女性歌手のファドを聴くところで終わりました。まさにファドの真髄のような哀切きわまる孤愁、サウダーデの歌ごえに心を揺り動かされつつ聴きました。
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