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腎がんのメモリー 30(5年間のまとめ)

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   QPの描く遠景の人物...いつも心癒されます(上左) そしてなんとまあ優しく可愛い子(右)

 このブログを訪ねてくださる、たぶん腎がんの方がしばしば「腎がんのメモリー」の過去ログを開かれ、嬉しく思います。同時に、長くて恐縮に存じ、この5年間のメモリーを抄録しました。QPのPC画、シマジロウのスナップと併せてご覧ください。

 Ⅰ.がん告知~病院選び

 ① ある日 突然!
 不整脈で掛っていた医師が或る日「健康診断のつもりで胸腹部の単純CTを撮りませんか」と。「がんにはならない」と思っていましたが、熱心に奨められその気になって大きな病院で検査を受けました。告げられたのは「腎臓に腫瘍があります」 「更に精密検査を要します」。CT(造影)とMRIを撮り告げられた診断は「3cmの腫瘍」「細胞診で確定しますが、たぶんガンです」。結構!冷静に聞きました。

 ② 選択肢は手術のみ
 そう告げられたのが2011年6月17日、妻が函館の実家に帰省中でした。電話で告げると、周章狼狽し「すぐ帰る」。妻が平静でなくなる分、私は寧ろ平静になり、PCで「腎臓がん」を検索しました。「3cmの腎がん」は 「第1期前半」、ホッとしました。がんの三大療法 「手術」「化学(抗がん剤)」「放射線」のうち、化学と放射線療法は腎がんに効果がなく、「手術しかない」ことも初めて知りました。

 ③ 親友の泌尿器科医の紹介で某医大へ
 検査を受けたのは市内で1、2の大病院ですが、「腎臓がんの手術はウチではできません」 と言われました。そこで隣市で泌尿器科医院を開業している高校時代の親友に電話すると、「すぐ来い!」。行くと、「母校の後輩で、腎がんに精通した准教授を紹介しようか?」に、即 「頼む」 。その場で准教授に電話して貰い、受話器から「M先輩のご依頼なら喜んでお受けします」 との声が聞こえました。

 ④ 主治医「最善を尽くします」
 同月21日、紹介された大学病院の泌尿器科に妻と参りました。診察室に入ると准教授は笑顔で「M先生(私の親友)から伺っています。最善を尽くします」。それだけで不安がとけ信頼が生まれました。腫瘍は小さいが動脈に近いことなど絵を描きながら丁寧な説明がありました。「腹腔鏡下で部分切除手術。状況によって開腹、全摘に切替える」との結論。心から信頼し、「すべて先生にお任せします」。

 Ⅱ.入院~手術

 ① 入院・手術日 
 入院・手術は「概ね1か月後」と決まり、その間、自己血の貯血(400cc)、麻酔医の説明、入院の準備・留意事項の説明を受けました。入院まで平常通りに仕事をし、各方面への挨拶、引継等をしました。翌7月20日、携帯にメールが入り、手術は1週間後の27日、入院はその前日となりました。その電話で初めて「がんの手術を受ける」実感がわきました。「処刑直前の人ってこんな感じかなぁ」なんて。

 ② 入院の日の儀式
 「北へ帰る人の群れはみんな無口で(津軽海峡冬景色)」。病院に入院する者もみんな無口だと思います。ナース・ステーションに行くと担当看護師さんが現われ、個室に案内され説明を受けました。妻が帰った後、看護師さんからヘソ掃除など羞かしい儀式の洗礼を受け、早くも午後5時には最期の晩餐?を頂きました。頂いたものが漸く消化される午後9時、看護師さんが現われ「浣腸しま~す」。

 ③ 手術室にて
 翌朝も、若い看護師さんが明るい声で「今から浣腸しま~す」。 午前9時、看護師さんと手術室まで一緒に歩きました。手術室を出る看護師さんにハグしたい心境でしたが、手を振ってお別れしました。「私は独り連絡船に乗り凍えそうなカモメみつめ泣いていました(津軽海峡冬景色)」。私も独り手術台に乗り無影灯みつめ観念して目をつぶりました。麻酔をかがされると僅か数秒で意識が遠のきました。
 
 ④ 予定通りの手術
 突然の喧騒に、「何事?」と思ったのが麻酔からの目覚めでした。目をあけるとそこは病室で、「終わったんやなぁ」と思いました。妻が「予定通りの手術でした。時間は6時間、貯血は使っていません」と。手術直後、主治医から妻に「細胞診まではわかりませんが、見た目に悪性度の高いガンだと思います」と告げられ、切除した現物!も見せられたそうです。勿論、私がそれを知ったのはかなり後です。

 
  (上左)愚息の独身寮時代のシマ (中)QP描くまるで天上の風景 (右)藤田嗣治画伯風?シマ

 Ⅲ.絶対安静~退院まで

 ① 計算外の苦痛
 硬膜外麻酔はしませんでしたが、術後、耐えがたい痛みは殆どありませんでした。「私は痛みに弱いから」と心配される方がいらっしゃるでしょうが、麻酔と鎮痛処方は年々良くなっていると思います。しかし術後3日間の絶対安静は想像を超える苦痛でした。その三日つづくふくらはぎのマッサージも、気持ちよいどころではありません。手術した箇所の痛みよりず~っと苦痛だったのは計算外でした。

 ② 人間の回復力
 3日後、ベッドから立とうとしましたが、立てません。絶対安静の三日が「立つ」感覚を忘れさせていました。一方、人間の回復力もすごいです。数時間後には廊下を普通に歩き、翌日は階段を上り下りし売店まで歩きました。生活のリズムも日常に近づき、午前6時の検温で目覚め、洗面・食前の歯磨き・髭剃り・・・。5日目に普通食になり、匂いさえ厭だった病院食は苦にならず待ち遠しくなります。 

 ③ 8月10日「家に帰れるんやなぁ」
 術後1週間で入浴許可が出ました。 早い! でも傷口(孔)に絆創膏が貼ってありおっかなくてシャワーのみ。10日目、「明日、退院OKです」。しかしどうにも不安で「せめてあと数日」とお願いし、了承いただきました。そういう経緯で入院から2週間後の8月10日、かんかん照りの空を眩しく見上げながら退院しました。晴々!の心境というよりも、「家に帰れるんやなあ」と感慨深いものがありました。

 ④ 入院の期間 看護師さんの仕事
 4日~1週間で退院させる病院があります。私の感覚では「一週間では無理!」。そもそも抜糸(抜鉤)が6日目、内視鏡等を入れる「孔」5か所は退院した2週間後もガーゼに血や膿が滲んでいました。それにしても看護師さんの仕事はハードです。汚くて危険で力仕事、夜間・休日の変則勤務、医療技術や機器の進歩にも対応を求められます。まさに天使、献身的な仕事ぶりに感謝、感動でした。
 
 Ⅳ.「細胞診」結果とリタイア

 ① 術後1か月 「細胞診」結果
 退院から1週間、8月17日に「お試し出勤」し、皆さんから温かい声をかけて頂きました。日常に戻った8月30日には細胞診の結果を聞きに病院へ。 pT1a:第1期前半。大きさ:25×25mm。G2≫G3:悪性度高く一部最悪。INFa:予後良い膨張・非浸潤型。v0、ly0:血管・リンパ管浸潤無。eg:膨張的発育、非ガン部と明確な境界。fc1、rc-inf1:周囲に明確な結合繊性被膜。margin(?):ガン細胞の取残し?

 ② それって なに?
 気になったのが 「G2≫G3」。組織報告書には「一部にG3相当の核種大や核形不整を示す異形細胞を認める」との記述。初期に見つかり一部摘出できたが、悪性度が高く再発転移の可能性が高い!って?。 『margin(?)』については『切除断端ごく近傍まで腫瘍を認めるが、断端面に割(電気メス)を入れ固定されたため検体が変形し組織学的評価は出来ない』。がん細胞を取り残し? それって なに?
 
 ③ 3月毎にCT 骨シンチ
 結果、本来なら半年か1年毎の術後検査が「3月毎に検査します。胸腹部CT、骨シンチ(骨転移を調べる)も受けて下さい」。「終わった」との安堵感が崩れた瞬間でした。ただ、ここを紹介してくれた親友のM医師によれば、がん細胞の取残しの懸念については、『電気メスで広い目に焼き切るから取り残しはない」に少~し納得しました。それにしても3月毎にCTやら骨シンチ、おちおち仕事できません。

 ④ 心躍る日々と 術後検査
 再発転移すれば務まる職務ではなく、仕事については強い気持ちで辞職を申し出ました。仕事の節目もあり、3か月ほどたった12月26日付で辞職しました。私の前任者は副腎ガンで辞職、そして私は腎がんで辞職でした。リタイアすると、生活は一変。淋しさはあるものの、「時間にも人にも束縛されない」日々に心躍りました。一方、長い長~い「術後検査」と向き合う日々の始まりでもありました。

 
  (上右)QP描くシマ。首飾り?が Good! (中)QPの描くお地蔵さん...亡きmintさんに寄せて

 Ⅴ.術後検診の始まり 

 ① 3月毎検診~6月毎検診~1年毎検診
 骨シンチは術後3月と6月の2回行い、主治医「以後2年に1回でいいでしょう」。術後2年に「再発転移を認めず」になった時点で、CT検査が「以後6月毎でいいでしょう」に。術後検診の「厭~な感じ」が3月毎と6月毎とでは雲泥の差、かなり嬉しかったです。そして9月13日の術後5年2月検査をクリアーした時点で、「以後、血液検査と診察は半年毎、CT検査は1年毎でいいでしょう」。
 
 ② 「完治」と「寛解」
 本来なら「完治」と言いたいところですが、メカニズムが未解明で分子レベルのがん細胞ゆえ、いつ再び現れ増殖を始めるかわかりません。ですから「完治」と言わず、「寛解(概ね治った)」と表現されます。そして殆どのがんが5年間「再発転移なし」を以て寛解とされますが、腎がんは関西風に言えば「ひつこいヤツ」で術後10年まで顔を出すため「寛解10年」、医師(病院)によっては20年!もあります。
 
 ③ 採尿採血検査
 採尿採血は術後検診の都度あります。手術前のようなエイズや梅毒、B・C型肝炎等を含む数十項目に及ぶ検査ではなく、健康診断よりやや詳しい程度です。腎がんでは腎機能をみる「クレアチニン」「e-GFR」が重要で、私は一部切除でしたが、全摘(いわゆる「片腎」)の方には特に重要です。なお私は「30%超でがん細胞が死滅する」数値として「Lymph%(免疫力指数)」にも注目していました。

 ④ 食生活・サプリメント・運動
 食生活について私は大幅に変えました。鶏肉を除き肉類は殆ど食べなくなりました。魚は以前より寧ろたくさん食べています。野菜・果物はもともと好きでしたが、たぶん倍増です。各種のサプリメント、スギナ茶など水分摂取も含めたお茶の類、よく言われるキノコ類など様々な療法も結構かと思いますが、敢えて具体的なお奨めは控えます。運動は、始めは少し苦痛でしたが、今は欠かせない愉しみです。

 Ⅵ.「終わりの始まり」から

 ① 患者と医師(医療関係者)
 医師と病院は決定的に重要ですから、信頼感を持てなければセカンド(サード)オピニオンを求めていただきたく思います。医療関係者につい!不満、怒りを持つのは兎も角、術後長く執拗な批判、非難をつづけられる方は本当にお気の毒に思います。一方、医療関係者にも余りに無神経だったり杜撰だったりする方が少なからずいらっしゃいます。再研修(教育)を含めてご検討いただきたく思います。

 ② 最大の治療法
 私が腎がんを手術した5年前と今では抗がん剤、手術機器など医療は大きく変わりました。がんの検査技術・システムも進化し、とりわけ腎がんでは早期発見が急増しています。腎がんカテゴリーのブロガーも急増しています(笑)。総てにおいて5年前の更に5年前とはもっと大きく変わり、術後5年の生存率一つとっても様変わりしています。なんとしても長生きすることが最大の治療法たる所以です。

 ③ 人生の選択
 もしがんにならなかった私がいるとすれば、それはどんな私でしょう。がんになって失ったものはたくさんありますから、がんにならなかった私が取り戻せるならどんなに嬉しいでしょう。但し、がんになったからこそ得られたものは・・・失われます。新たな人生観と人間観、日々の出来事に対する微妙な皮膚感覚、そして腎がんの仲間.・・・それは失いたくありません。しかしそんな選択などできないのが人生です。
 
 ④ 「新しい始まりの始まり」に
 腎がんを告げられた時、結構!淡々と受け容れました。そしてわが人生について「終わりの始まり」と。それまで様々な検査でビクついていたのに、結果が出ると案外そんなものかもしれません。5年たった今はどうでしょうか。術後検診のたびにいつもどきどきする私ですが、「終わりの始まり」ではなく、「始まりの終わり」にかわりました。そして今、「新しい始まりの始まり」に出発したいと存じます。

 【「腎がんのメモリー」目次】
    http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/bee90bf51656b2d38e95ee9c0a8dd9d2

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